2008年

ーーー12/9ーーー 茜浜展示会報告

 新習志野の茜浜ホールに於ける展示会が終わった。いろいろな意味で新しい試みが盛り込まれた、興味深い展示会であった。一言でいうならば、大成功だったと思う。まずは時間と労力を惜しまずに協力をしてくれた友人たちに、心から感謝を捧げたい。

 展示会というものは、力を入れて準備をし、期待が大きいほど、「取らぬ狸」の結果になりやすい。それは、努力をすれば相応の成果が得られるはずだという、単純な考え方から来る誤りである。成果というものを、売り上げや注文などという金銭的なものだけで判断するなら、失望は初めからゴールで待ち構えている。展示会の成否を判断し、それを先に生かすためには、表面には現れない、もっと深い所のものに気付き、読み解くことが必要である。

 以前、あるジャズミュージシャンの、小さなコンサートを聴きに行った。かなり年配のその男は、曲の合間のおしゃべりで、「大きな拍手をお願いします。拍手が無けりゃ盛り上がらない。お世辞の拍手でもいいんです。私はプロだから、お世辞かどうかは聞いて分かります。だから、気にせず拍手をして下さい」と言った。

 今回の展示会では、三日間で延べ二百人をこえる来場者が有ったと思う。その方々が、私の作品を見て様々な反応を示してくれた。その反応に優劣を付けることはしないが、作者の意図に響いた反応があれば、私には分かる。上のミュージシャンの例ではないが、私も一応プロだから、お客の反応を見抜く術は心得ているつもりだ。

 逆に一見的外れのような反応でも、聞いてみれば興味深いものも有る。率直で真摯な意見には、学ぶべきものが少なくない。それはそれで、大切に聞き置かなければならない。

 ともあれ、そういったお客の反応の質や密度というものが、作者にとって展示会の成否を分ける鍵となる。その意味では、今回の展示会は、幅も奥行きも十分な手応えが有った。さらに、「取らぬ狸」の八割ほどの実益も上がったのだから、これは大成功と言って間違いない。

 それにしても、TEC(もと勤めていた会社)の皆さんの温情には感激を禁じえなかった。総合プロデューサーをやってくれたM氏、その相棒のF氏、オープニング・パーティーの司会をやってくれたI氏、その友人で山岳部のO氏、会場の手配にご尽力を下さったヨット部の仲間だったMさん、軽音楽部の演奏をまとめてくれたM氏、お花のカンパをしてくれた同期入社の18人、独身寮でお世話になった元寮母のIさん、飛び切りのワインを惜しげもなく6本差し入れてくれたM業務部長、いろいろお世話を下さり、さらに仕事の話も向けて下さったE総務部長、会場を管理している会社のO取締役、その他美女軍団、OB社員、先輩、同僚、後輩、ホールの管理人Kさん、などなど。

 そして最終日の夕方に駆けつけてくれたY社長。こんな言葉を頂いた。

「すごく良いものを作っていますね。さすがTECには優れた人材がいるなあ」。

 私は、もはやTECの社員ではないですよと、心の中で苦笑をした。しかし、社長にとっては、現役社員も、OBも、はたまた途中で辞めた者ですら、同じ釜の飯を食った仲間として、喜びを分かち合う対象なのだ。そう思ったら、胸にジーンと来るものが有った。



ーー−12/16−ーー CDのプレゼント

 
現在浪人中の次女は、自宅で勉強をするときに必ず音楽を聴く。もはや死語になってしまった「ながら族」である。かく申す私も、工房で仕事をしながらラジオやCDを聞いているから、同類ではあるが。

 娘が聴くのは、日本のポップスが多いが、たまにジャズやクラシックも聴く。ポップス以外のジャンルは、自分で新しい曲を開拓することはなく、もっぱら私が所有するレコードを聴いてきた。クラシックの中にも、いくつか気に入った曲があったようで、ブラームスの交響曲第四番もその一つであった。

 数ヶ月前からレコード・プレイヤーの調子が悪くなり、お気に入りのレコードが聴けなくなった。娘は、思い出したように、ブラームスの交響曲第四番を聴きたいと言った。と言うとなんだかクラシックマニアのように取られる恐れがあるが、実は「あの曲」程度のことでしか無い。彼女は第四番と第四楽章の区別も付かない素人である。まあ知識は無くとも、音楽そのものを気に入ってくれれば、それで良いのだが。

 私が以前勤めていた会社の同僚のI君は、ブラームス好きのクラシック・ファンである。彼に頼めば、手持ちのCDから録音をして、くれるのではないかと考えた。ちょうど展示会で会うことになっていたので、事前にメールでその事を頼んだ。彼は快く引き受けてくれた。

 展示会の初日、I君と会った。ちょっと時間が空いたとき、I君は一つのCDを取り出した。三枚組みのアルバムで、ブラームスの交響曲1〜4番全曲が入っているものだった。クルト・ザンデルリング指揮、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団の演奏で、私はそれまで聴いたことが無かったものだった。I君は、自身が保有するCDを全部調べてみて、これが一番良いとの結論に達したらしい。ちなみに交響曲第四番は何種類くらい持っているのかと聞いたら、20枚はあるとの答えだった。

 封を解いていない新品のCDである。それをくれると言う。私がコピーで良かったのにと恐縮すると、同じ物が家に二つ有り、余っているので持ってきたと言った。私は、口には出さなかったが、「嘘だ」と思った。いくらマニアでも、そんなものをダブって持っているはずは無い。私にくれるために、取り寄せたに違いない。

 彼にはこれまでも折に触れ、CDをプレゼントしてもらったことがある。その度毎に、彼の態度は控えめだった。恐らく深い思い入れをもって選んでくれたモノであろうが、そんな様子は全く見せなかった。音楽には個人の好みというものがあるから、贈る側があまり大袈裟な事を言うと、受け取る方が先入観を持ってしまって、素直に聴けなくなる。彼はそれを気遣うのである。

 今回も、わざわざ買ってくれたということになると、私が気詰まりになり、「ちゃんと聴かなきゃ申し訳ない」というプレッシャーを抱くことになりかねない。そんな気持ちでこのアルバムに接してもらっては残念だということで、方便を用いたのだろう。行き届いた配慮と、音楽に対する愛情の深さが感じられた。

 娘は、思いがけないプレゼントに大喜びだった。それから10日あまり、彼女は毎日毎晩このCDをかけている。交響曲を取っかえ引っかえ、繰り返し聴いている。よくも飽きないものだと思うくらいである。I君は、交響曲第3番とハイドンの主題による変奏曲がお勧めだと言った。娘も私も、それらの新しい曲目が耳に馴染んできた。さらに娘は、「交響曲第二番もなかなかステキじゃない」などと言うようになった。

 I君のおかげで、また一つ音楽の世界が広がった。同じ音楽でも、間に人が入ってアプローチをすると、親しみが湧き、興味が深まる。つまり、よりストレートに響くのである。本当に大切なものは、人によってもたらされるのだと思う。インターネットが発達して、あらゆる情報が簡単に手に入るようになったが、便利さは希薄さを伴う。知識は増えても、心に響くものは、易々とは見つからないし、得られない。深い喜びとか感銘とかは、生身の人間の思いや行為が介在することによって届けられる。それは一見遠回りで面倒なプロセスに思えるが、実は一番確実で手ごたえがある。



ーー−12/23−ーー 出版へのカウントダウン

「もうここまでくれば、確実です。必ず来春には刊行できますよ」という言葉を出版社のAさんから頂いた。先日、初校を届けてもらったときのことである。これで、生涯の夢の一つであった、自分の本を出すということが、いよいよ最終段階に入った。

 この話は、およそ二年前、突然舞い込んだ一通の手紙から始まった。大阪の出版社「プレアデス出版」のオーナーA氏から届いたものだった。プレアデス出版は、数学、物理学を中心とした大学理工系のテキスト、参考書をはじめ、天文学、宇宙科学関係の専門書や啓蒙書を軸とした専門出版社である。

 手紙の内容は、私のホームページの「木と木工のお話」をベースに加筆修正をして、一冊の本を刊行するという企画の申し入れだった。そういうことが稀に世の中にあるということは、新聞やテレビで聞いたことがあったが、まさか自分のところに来るとは思わなかった。

 実際にA氏と会って会話を重ねるうちに、「この話は本物だ」と思うようになった。普段はもっぱら専門書を出しているが、年に一つ二つは、別のジャンルでも、これはと思うものを取り上げて世に出したいとのことだった。それに私の書いたものが選ばれたというのは、誠に光栄であり、嬉しかった。

 話がスタートしてから現在までの道のりは、山あり谷ありであった。自分が書いた元ネタがあるとはいえ、いわば気の向くままに書きなぐったものを、商品としての文章に再構成するのは、簡単なことではなかった。もちろんA氏から注文が付くことも数多くあった。細かい文章表現でも、配慮すべき点をいろいろ指摘された。

 当初は、木工愛好家を対象とした実用書的なものという位置付けだった。小さい出版社にとって、手堅い商品は実用書であり、エッセイ風のものは難しいとの説明だった。

 実用書という性格は、私にとって重荷だった。木工という、間口も奥行きも大きな世界に関して、私ごときが偉そうなことを述べるのは、大いに気詰まりだった。木工を職業としてやっているからには、同業者の目というものを意識せざるを得ない。中途半端な事を書いて、同業者から冷たい目で見られることも不安だった。かといって、木工雑誌に書いてある程度の、当たり障りのない内容で済ますのでは、わざわざ本を出す意味が無いように思われた。

 この点で、私は随分悩んだ。A氏と面会するたびにその悩みを訴えた。口には出さなかったが、「もうこの件は私には無理だ」と感じることもあった。

 そんな私の苦しみを理解してくれたのか。A氏は次第にエッセイ的性格を容認するようになった。出版社のオーナーとしては、苦渋の選択だったと思う。しかし、私にとっては肩の荷が降りてラクになった。それからは、筆が進むようになった。

 出来上がった初校は、B6判でおよそ250ページ。パソコンの画面で見るのとは違って、実際に活字で印刷されたものは迫力がある。「自分が書いた物とは思えないくらい立派なものですね」と私が言うと、A氏は「本になれば、もっと立派ですよ」と笑った。



ーー−12/30−ーー 一年を振り返り

 
今年も終わりが近づいた。月並みだが、押し迫ってくると、ついこの一年を振り返ってみたくなる。

 家族の事情としては、これといった出来事は無かった。しいて挙げるならば、次女が大学受験に落ちて浪人生活に入ったくらいか。あと、今月になって息子が大学院に進むことになり、とりあえずニートにならずに済んだことは、朗報であった。

 仕事の方は、世の不況のせいか、はたまた我が身の不徳の致すところか、右肩下がりの状況である。それで、年の終盤になって急遽企画された茜浜ホールの展示会。起死回生の大振り一発は、満塁ホームランとまでは行かなかったが、勝ち越しの逆転打にはなった。あらためて人の繋がりの大切さ、有り難さが身に染みた。

 夏に松本で開催された「木の匠たち展」。これに参加させて頂いた事は、良い経験となった。一流の木工家たちと知り合い、言葉を交わすことができ、たいへん勉強になった。

 その他としては、夏にテント泊まりで北アルプスの縦走登山をした。幕営縦走は、信州に越してから一度もやったことがなかったので、実に20年ぶりである。そのために半年前からトレーニングをした。こういう事がまだできる体力と気力が残っていることに、いささかの自信を持った。山と言えば、極めて規模の小さいものではあったが、夫婦登山を始めたのは新展開であった。

 趣味の音楽では、ハープを始めた。米国製のキットを組み立てて、ハープの構造を知る事が目的だったのだが、出来上がってみたら弾くのが楽しくなった。手を広げ過ぎの感もあるが、この楽器とも、長く付き合って行きたいと思う。

 世の中では忌まわしい事件、悲惨な事故が相次いだ。痛ましいと思うが、私ごときにはどうしようもない。一方で、自分だけ良ければというわけではないが、家族がそのような災いに見舞われなかった事を幸せに感じ、有り難く思う。

 それでは皆様、本年もご愛顧を頂き有難うございました。来年もよろしくお願いします。よいお年をお迎え下さい。





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